一人の患者の前に、二千年を連れてくるために

古典、臨床、AI、そしてMLMN理論
Multi-Layered Meta-Network Theory/多層階層ネットワーク理論

腹へ沈めた掌が、わずかな抵抗の前で止まる。脈に触れた指先が、左右の違いを捉える。患者が語った一言によって、別々に見えていた病歴が一本につながる。東洋医学の臨床は、いつも、このような小さな瞬間から始まります。

このページの順路: 一人の患者から始まった疑問 → 東洋医学二千年問題 → 現代TCMによる標準化と再圧縮 → 日本近世臨床の記録 → 約30年の臨床とこの一年のAI古典研究 → 「強力入水/入房」の検証例 → MLMNのL0〜L9 → 診察と計測の将来、の順に説明します。

臨床的な出発点:「東洋医学二千年問題」

中国古典医学は、陰陽、五行、臓腑、気血津液、経絡、六経、三焦など、きわめて精緻な説明体系を築いてきました。しかし、その整然とした体系を学んでも、目の前の一人について、どの生活史、病歴、身体所見、治療反応を根拠に、なぜその治療を選ぶのかという経路が見えにくい場合があります。これは中国の臨床家が理論しか持たず、病気を治せなかったという意味ではありません。古典の記述形式と、症例ごとに保存される臨床情報の範囲に関する問いです。

一方、日本の古方派や近世臨床医書には、患者の体格、腹診、生活、投薬前後の変化、治療の失敗、回復の順序が具体的に記され、患者像と「どう治したか」が立体的に見える資料があります。石原幸一は約30年の臨床を通じ、この差はどこから生じ、中国古典医学に見られる演繹的体系と、日本の臨床家が積み重ねた帰納的実証がどこで接続したのかを問い続けてきました。その探索は、吉益東洞の毒論、腹診、宇津木昆台『医学警悟』『古訓医伝』の検討を経て、MLMNへ至ります。

検証仮説としての「演繹」と「帰納」: 中国と日本、あるいは理論と臨床を単純に二分する確定的な歴史記述ではありません。民族的な優劣ではなく、作品ごとの記述形式、臨床情報密度、治療推論の示し方を比較し、支持する資料と反証する資料の両方を確認します。

現代TCMは、二千年問題を解決したのか

現代中医学(Traditional Chinese Medicine/TCM)は、古典医学の多様な理論を、教育と医療の現場で共有できる形へ整理しました。弁証論治によって病態を分類し、治法、方剤、主穴、配穴、刺鍼法を一定の体系として示したことは大きな功績です。実際、中国の診療指針には、疾患・証候に応じた経穴、刺入、補瀉、留鍼時間まで記載したものがあります。

しかし、標準化されたことと、一人の患者について治療選択の全経路が説明されることは同じではありません。ある証にはこの治法、ある疾患にはこの主穴と配穴、という一覧があっても、どの問診、脈、舌、腹、背部、経穴反応を根拠にその判断へ至ったのか、なぜ背部兪穴・手足の経穴・局所穴のどれを選ぶのか、なぜ鍼・灸・漢方・養生のどれを優先するのか、どの刺激量と順序で用い、治療後の何を見て次の治療を変えるのかが、一続きに示されない場合があります。

症状の組合せ → 証名 → 標準治法・標準配穴

共有しやすい要約である一方、要約前の患者情報と選択経路が失われ得る

証は臨床判断の強力な要約です。しかし要約が早すぎれば、同じ証名を与えられた二人の、出生前の条件、発育、既往歴、労働、食事、情志、治療歴、回復余力、腹部や脈の違いが見えなくなります。石原が問題にするのは、TCMに治法や経穴がないことではなく、患者の原情報から具体的な治療操作へ至る導出経路が、標準化の中でもう一度圧縮され得ることです。

数ある配穴原理は、患者一人の治療へどう接続されているか

中国の鍼灸古典には、単に「この症状にはこの穴」という対応表だけでなく、臓腑と経絡、原穴・絡穴、背部兪穴・募穴、五兪穴、八脈交会穴、時刻・季節、身体条件、刺入の深浅、補瀉などを組み合わせる、数多くの配穴・刺法原理が蓄積されています。『難経』の五兪穴・原穴等の理論、竇漢卿『標幽賦』の「臓腑病には門海・兪募を求め、経絡の滞りには原・別・交会を求める」という整理、症候と組合せ穴を列挙した『百証賦』は、その一部です。

これらは現代の中国医学教育や研究から完全に消えたわけではありません。しかし標準化された診療の場では、個々の原理が教科書上の知識、専門研究、流派固有の運用として分かれ、目の前の患者に、どの配穴原理を、なぜ採用し、なぜ他の原理を採用しなかったのかという比較過程が、診察所見から治療後評価まで一続きに示されないことがあります。石原は、古典に存在する数ある配穴原理が、現代臨床の標準的な判断経路へ十分に再統合されていないのではないか、と問い直しています。

『素問』運気七篇についても、歳運・司天・在泉・気候変化と人体の反応をどう読み、選穴や刺法へ接続するのか、接続しないならなぜ用いないのかを示す必要があります。ただし、運気七篇そのものが現代的な意味で個別の標準配穴表を提示している、とここで断定するものではありません。『標幽賦』には「歳時を天道に察し」「春夏は痩せて浅く刺し、秋冬は肥えて深く刺す」、また十干、孔穴の開闔、時日の旺衰を論じる記述があり、少なくとも歴史上、時間・季節・身体条件を刺法へ結びつける思考が存在したことは確認できます。

文献の来歴と、このページでの位置づけ: 『標幽賦』は金元期の鍼灸家・竇漢卿の撰とされ、もとは『鍼経指南』に収められ、後に明代の高武が編んだ『鍼灸聚英』へ収録されました。診察、経絡・臓腑、配穴、刺鍼技術、時候を連続して論じる文章です。『百証賦』も『鍼灸聚英』に収められた症候―配穴の歌賦ですが、編者自身が作者不詳で、すべての病を尽くすものではないと記しています。したがって両書を普遍的な唯一の規則とはせず、歴史上蓄積された複数の選穴・配穴原理を検討する資料として扱います。参照:『標幽賦』本文『百証賦』本文『鍼灸聚英』書誌・構成
反証を含めた確認: 中国の公的診療指針には具体的な配穴・操作があり、現代の高等教育でも『内経』『難経』、五兪穴、原穴、兪募配穴、八脈交会穴等が教えられています。したがって「TCMには治療基準が全くない」「古典の配穴原理を一切利用していない」とは述べません。本ページが検討するのは、数ある原理のうち何を採り、何を採らなかったのか、その理由を個別患者の観察、刺激条件、治療後評価まで第三者が追跡・再検討できるかという問題です。石原の「簡略化によって十分に活かし切れていない」という見方は、今後、診療指針、教材、症例記録を比較して検証する臨床的仮説です。例:腰痛(腰椎間板突出症)中医臨床診療指南原発性肝癌診療指南(2024年版)上海中医薬大学「経絡腧穴学」教学大綱

三十年の臨床から、古典へ戻る

石原は約30年、患者の身体に触れながら、この問いを追ってきました。若い頃に教えを受けた先達から、技術は短期間に完成するものではなく、長い臨床と検算によってようやく形になることを学びました。辞書を片手に漢文を読み、図書館へ通い、膨大な資料を複写し、治療の結果を再び古典へ戻って確かめてきました。そこには、生活の多くを失うほど研究へ没頭した時間もありました。

それでも、一人の人間が数千年にわたって書き継がれた医学文献をすべて読み、記憶し、一人の患者の前で同時に比較することはできません。名人一人の頭の中へすべてを背負わせる限り、その人が生涯を終えたとき、判断の多くは再び失われます。

この一年、AIを用いて何を行ってきたか

この一年、石原はAIを研究の補助者として用い、『黄帝内経素問』『黄帝内経霊枢』『難経』『傷寒論』『金匱要略』、金元医学、日本近世医書と、それらに連なる資料を検討してきました。『傷寒雑病論』という単一の完全本文が現存するかのようには扱わず、現在伝わる『傷寒論』『金匱要略』等の資料と、その編集・伝承を区別します。

AIが補助したこと

古典画像の文字起こし、関係箇所の探索、異なる本文・注釈の並列、用語と主張の分類、同文重出・作品境界・OCR誤認・矛盾候補の検出、導出経路の記録。

人間が担うこと

問いと資料の選択、原画像・底本・異本への照合、句読と語義の検討、前後文の解釈、約30年の臨床との照合、MLMNとしての再構成、確定と公開の判断。

作業には、未校合OCR、訓読・現代語訳の作業案、正本候補、原画像照合済み資料が混在しています。ファイルが存在することと、全文が校訂・確定したことを同一視しません。AIの出力は古典本文でも、典拠の確定でも、臨床の正解でもありません。

一字から、千年の読解をたどる

その方法を示す一例が、「強力入水」と「強力入房」です。『難経』四十九難の主要本文には、次の一文があります。

久坐濕地、強力入水、則傷腎。

『難経』四十九難。主要本文では「入水」

元代の滑寿『難経本義』は、これを「用力作強、坐湿入水」と注し、過度に力を用いること、湿地に坐ること、水に入ることとして説明します。一方、『素問』「生気通天論」の本文には「因而強力、腎気乃傷、高骨乃壊」とあり、唐代の王冰注は「強力、謂強力入房也」として、過度の房事と解釈します。さらに金元時代の張従正『儒門事親』は、「『難経』曰、強力入房則腎傷而髄枯」と引用しています。

したがって、「入水が正しく入房は単なる誤り」とも、「入水そのものが性交の婉曲表現である」とも、ただちには断定できません。『素問』本文に対する古注、『難経』の主要本文、後世医家による引用を分けたうえで、どの読解が、どの資料を通じて形成されたかを検討する必要があります。

もっともらしさは、証拠ではない。

AIの回答を終点にせず、本文・古注・異本・後世引用へ戻る

AIが最初から正解を言い当てたことが重要なのではありません。仮説を疑い、一字から複数の時代と資料へ移動し、どこまで確認され、何がまだ確定していないかを示せたことが重要です。人間がAIを用いることで、従来なら長い年月を要した探索と比較を進めながら、結論へ至る道筋そのものを批判可能な形で残せます。

この引用の来歴と検証状態: 『難経』四十九難は臓腑の「正経自病」と五邪所傷を論じる箇所です。現行作業では京都大学貴重資料デジタルアーカイブ所蔵画像を参照し、主要本文の「入水」を確認しています。滑寿『難経本義』、王冰注『黄帝内経素問』、張従正『儒門事親』は後世の注釈・引用として区別します。歴史的な版本間の全対校は未完了です。参照:『難経』底本画像滑寿『難経本義』四十九難『素問』生気通天論・王冰注『儒門事親』巻七

圧縮された経路を、もう一度開く

MLMN(Multi-Layered Meta-Network Theory/多層階層ネットワーク理論)は、古典を十個の箱へ押し込む理論ではありません。患者から得られた情報を、早すぎる診断名や証へ圧縮する前に失わず保存し、病態がどのように形成され、なぜその治療候補へ至るのかを検討するために、石原幸一が提案している研究中の臨床推論フレームワークです。

問診、脈診、腹診、舌診、背候診、全身の経絡・経穴診察から得た原情報をL0〜L9の10層へ配置し、棚をまたぐ所見の関係、先後、時間経過、治療後反応から複数の形成経路を比較します。10層は情報を整理する棚であり、病気が順番に進む十段階ではありません。

MLMNは学術的コンセンサスを得た確立理論・標準理論ではありません。診断や処方をAIへ任せるものでもありません。原観察、典拠、解釈、反証、臨床結果を再検討できる形で残し、臨床家の判断を支えるための提案です。

熟練を否定せず、継承できる形へ

過去数百年、数千年の診察技術は、熟練者の身体感覚と臨床経験によって高められてきました。その事実を軽視して、機械が名人を置き換えるとは考えません。次に必要なのは、熟練者だけが感じ取ってきた所見を、別の臨床家が比較し、学び、批判できる形で残すことです。

脈の生波形、測定位置、押圧深度、左右差。腹部の形、圧、硬さ、拍動、変位。舌の原画像と撮影条件。背部・経穴の位置、皮膚状態、機械的・電気的反応。さらに呼吸相、治療前後、長期経過を共通の時刻で保存する。AIによる自動診断ラベルを正解にするのではなく、後から別の研究者が再検討できる解釈前データを残すことを目指します。

AIには、研究を支える補助者としての席を置く。しかし、読む者の椅子は譲らない。

問い、原典確認、臨床的解釈、最終判断は人間が担う

10層へ配置する前に――何を診察し、何を記録するのか

10層は、診察そのものの代わりではありません。まず身体と患者の語りから原情報を取得し、その後に各層へ配置します。現段階では、以下の五つをMLMNの中核入力とします。

1 腹診

腹部の緊張、軟弱、抵抗、圧痛、温度、動悸、左右差、部位差などを記録します。最初から「虚」「実」「毒」と断定せず、触れた事実と解釈を分けます。

2 背部兪穴診察(背候診)

背部兪穴とその周囲の緊張、陥下、圧痛、温度、皮膚状態、左右差、経穴反応を記録します。腹部所見と一致する点だけでなく、表面上の実の背後にある虚など、不一致も残します。

3 舌診

舌質の色・形・潤燥・裂紋・歯痕、舌苔の色・厚薄・偏在などを記録します。照明、飲食、服薬等の観察条件も可能な範囲で残します。

4 脈診

部位、浮沈、遅数、強弱、大小、長短、緊張、滑濇、左右差など、実際に触れた脈状を記録します。脈名や証名だけへ早く圧縮しないことを重視します。

5 問診

主訴、発症時期、先行事象、増悪・軽減条件、既往、睡眠、食欲、便通、排尿、発汗、月経、生活・労働・環境、過去の治療と反応を、患者から得た情報として記録します。

継続観察 時間経過と治療後反応

初回所見だけで完結させず、何が先に起こり、何が残り、介入後に何が回復し、何が回復しなかったかを追います。これがL9の時間相と、次回の臨床判断を更新する入力になります。

五つの入力と10層は一対一対応ではありません。同じ腹診所見が複数層の仮説に関係することも、腹・背・舌・脈・問診が互いに一致しないこともあります。MLMNは、その一致と不一致を消さず、各所見がどの仮説を支持し、反証し、まだ判断できないかを記録します。望診、声・呼吸、皮膚、全身の經絡・経穴反応なども、必要に応じて補助入力として加えます。

2026年8月の構造改訂:現行L0〜L9への再編

MLMNは、旧構造で独立して置いていた「相火」を層から外し、出生前から出生時までの生命成立・初期条件をL0として分離しました。現行はL0〜L9の10層です。L1は出生後の生活・病歴・治療歴の中で形成された平常時基礎、環境はL8、時間相はL9として位置づけています。

独立した相火の層は、李東垣の陰火、朱丹溪で著名な相火論、生命活動の発動と消耗を、既存の層から失わず保存するために導入したものでした。しかし再検討の結果、相火だけに固有の原観察を定めることが難しく、情志・飲食・労倦などの入力、臓腑機能の変化、気血津液の消耗、全体配分、時間的な反復を一つの層へ混在させる問題が明らかになりました。独立層として必要な観察領域と境界を維持できないため、層横断の病機概念へ戻しました。

この改訂は、相火という概念を捨てるものではありません。相火、陰火、腎陰不足、湿熱、湿痰などは、特定の一層へ収納せず、複数層を結ぶ典拠付き病機概念として保存します。たとえば「L0の成立条件またはL1の出生後形成基礎→腎陰不足の候補→相火を制約できないという解釈→相火妄動の候補→熱化・消耗・症状」という形成関係を、各接続の支持・反証とともに記録します。

これは完成済み理論の単なる縮小ではなく、理論が自らの重複と説明不能部分を検討した結果として行う構造改訂です。現在の10層も必要十分性が証明された最終形ではなく、今後の文献照合と臨床記録によって、名称・境界・結合規則を引き続き検証します。

この理論は、どう導かれたか

MLMNの価値は層名だけではなく、なぜその層が必要なのか、どの資料と臨床上の問題から導いたのか、その導出経路を第三者が批判できる形にすることにあります。AIは大量の古典資料から候補を探索・抽出・分類しますが、OCR一致を典拠確定とはみなしません。作品を一冊ずつ読み、前後文、著者・編纂層、異本、原画像を確認し、石原幸一が約30年の臨床経験に照らして層の必要性と境界を再構成します。

公開する項目内容
なぜ必要か既存の記録法では失われる情報、隣接層と分ける臨床上の理由
原典と文脈書名、巻・篇・条文または頁、底本、前後文、校合状態
帰属原典本文、後世医家の解釈、歴史的実践、石原幸一の臨床的解釈、MLMN再構成の区別
AIの役割候補探索、抽出、分類、重出・作品境界・OCR誤認の検出。診断や典拠の最終確定は行わない
反証と検証状態非該当例、競合仮説、隣接層との境界、原画像照合、臨床で未検証かどうか

2026年5月16日の初期論文は、この方法が始まり、改訂されてきた形成史資料として原文のまま公開しています。旧L1〜L10、旧L8の相火層、当時の強い確定表現を含む未査読稿であり、現行理論との差分を併記しています。初期論文PDFを全文で読む版の位置づけと差分を見る

現在の10層:L0〜L9

MLMNは、取得した情報を以下の10層という棚へ配置します。一つの所見を一つの診断へ直結させず、原観察と候補解釈を分けます。病態形成は層の順番で決めず、棚をまたぐ関係、先後、時間経過、治療後反応から複数の候補経路として検討します。

名称 記述する内容
L0 生命成立・出生時初期条件 父母側の条件、受胎、胎内形成、妊娠中条件、出生時状態など、出生前から出生時までに成立した確認事実を扱う層。必要になった理由と古典的根拠を読む
L1 出生後形成の平常時基礎 出生後の生活、発育、病歴、治療歴の中で長時間かけて形成された、発症前の平常像・耐性・回復余力を扱う層。
L2 病因・起動入力 外邪、七情、飲食、労倦など、今回の変化を起動した入力候補を扱う層。
L3 臓腑・機能変化 臓腑の機能と相互関係が、入力を受けてどう変化したかを扱う層。
L4 気血津液 気・血・津液の不足、停滞、偏在、消耗、変化を扱う層。
L5 經絡・経路への表出 病態が經絡・経穴・体表のどの経路へ現れているかを扱う層。
L6 六経・現在の病勢局面と病態遷移 六経の病位、陰陽進退、現在の病勢局面、転変と治法可能性を扱う層。
L7 三焦・全体配分 上焦・中焦・下焦を通じた生成、配分、上下内外の全体関係を扱う層。
L8 環境・空間・生活条件 気候、気温、湿度、土地、居住、労働・社会条件、反復曝露などの外部条件を扱う層。
L9 時間相・可逆性・条件付き未来軌道 病歴、先後、季節、時刻、生活周期、固定度、再発性、可逆性、治療反応までの時間を扱う層。

各層の臨床的意味

L0:生命成立・出生時初期条件

父母側の条件、受胎、胎内形成、妊娠中の母体条件、出生時状態など、出生前から出生時までに成立した確認事実を保持します。現在の腎虚・命門虚・精不足などからL0由来と自動的に逆算せず、出生後の形成、現在機能、改善可能性とは分けて検討します。L0は「治らない層」や遺伝だけを意味しません。

L0が必要になった理由と古典本文を読む

L1:出生後形成の平常時基礎

出生後の生活、発育、病歴、治療歴の中で長時間かけて形成された、発症前の平常像、反復する癖、耐性、回復余力を扱います。「体質」という一語で固定せず、出生前から出生時までの成立条件はL0、今回の急な起動入力はL2へ分けます。

L2:病因・起動入力

今回の変化を起動した事実と候補を扱います。外邪(風寒暑湿燥火)、七情(喜怒憂思悲恐驚)、飲食、労倦などを記録しますが、発症前に存在した出来事を直ちに原因と断定しません。七情による気機変化と、李東垣の陰火、朱丹溪の相火妄動も同一視せず、形成関係を分けて検討します。

L3:臓腑・機能変化

五臓六腑の機能と相互関係が、入力を受けてどのように変化したかを扱います。一症状を一臓へ直結させず、問診と脈・腹・舌・背候・体表所見が、同じ機能仮説をどの程度支持または反証するかを記録します。

L4:気血津液

気・血・津液の量、質、分布、流動の変化を扱います。気滞、気虚、血瘀、血虚、水飲、痰飲、陰液不足などを候補として置きますが、乾燥、浮腫、尿便、皮膚色、疼痛性状などの原観察と解釈を分けます。

L5:經絡・経路への表出

病態が經絡、経穴、経筋、皮部などのどの経路へ表出しているかを扱います。症状の走行、放散、移動、左右差と、治療家が取得した経穴反応を記録します。身体上の位置が一致するだけで、経路関係を確定しません。

L6:六経・現在の病勢局面と病態遷移

『傷寒論』『金匱要略』と宇津木昆台『医学警悟』を主要な検討材料として、現在の病位、陰陽進退、病勢、転変、治法可能性を扱います。六経を単純な六段階へ固定せず、太陽・少陰、陽明・太陰、少陽・厥陰という三部位の陰陽関係と、六経を経糸、個別の病を緯糸として読む経緯構造を再検討しています。

L7:三焦・全体配分

上焦・中焦・下焦を通じた生成、配分、通路、上下内外の全体関係を扱います。単なる胸部・腹部・下腹部という部位表にせず、何が作られ、どこへ配分され、どこで届かなくなったかを検討します。三焦の上・中・下の境界と診察方法は、現在も古典から再検討中です。

L8:環境・空間・生活条件

患者を取り巻く外部条件を扱う層です。気候、気温、湿度、土地、住居、職場、労働内容、社会的立場、反復する曝露などを記録します。睡眠時刻、食事時刻、生活周期、季節による長短の時間変化はL9へ置き、環境そのものと時間情報を混同しません。

L9:時間相・可逆性・条件付き未来軌道

病態そのものが持つ歴史、固定度、可逆性、再発性、治療反応までの時間、条件付きの未来軌道を扱う層です。発症順序、時刻、睡眠・食事の時刻、生活周期、季節などの時間情報を用います。L6が「現在どの病勢局面にいるか」を扱うのに対し、L9は「どのような歴史を経て、どこまで、どの時間幅で動かせる可能性があるか」を扱います。

層をどう使うか

MLMNにおいて重要なのは、各層が独立した観察軸として保たれていることです。一つの症例を一つの層だけで読み切ろうとすると、他の層から見える重要な情報が失われます。逆に、複数の層で同時に観察し、層同士の関係を読むことで、症例の輪郭が立体的に浮かび上がります。

たとえば、慢性的な腹痛を訴える患者を考えるとき、L4(気血津液)で水飲・血瘀の候補を、L3(臓腑・機能変化)で脾胃・肝の関係を、L6(六経)で現在の病位と陰陽進退を、L7(三焦・全体配分)で中焦を含む上下の配分を、L0(生命成立・出生時初期条件)とL1(出生後形成の平常時基礎)で発病前からの条件を分け、L9(時間相)で形成史と可逆性を検討します。一つへ圧縮せず、主・副・基盤・誘因・結果・治療上の制約を区別します。

「毒」という統合概念

MLMNにおいて「毒」は、単一の病因物質ではなく、複数層をまたぐ形成関係の中で、有形的・持続的な病態として現れる候補概念です。L0の成立条件、L1の出生後形成基礎、L2の入力、L3の機能変化、L4の気血津液、L5の表出経路、L6の病勢局面、L7の全体配分、L8の環境条件、L9の形成史を追い、どの結合によって病態が形成・固定されたかを検討します。相火や陰火も、この形成関係を説明する典拠付き病機候補として保持します。

この毒の理解は、日本漢方の古方派、特に吉益東洞が提唱した「万病一毒論」の臨床的観察を、現代的な多層フレームに整理し直したものに当たります。腹診で触れられる毒は、単独の物質名ではなく、複数の層の重なりとして現れた病理の凝集として読み解かれます。詳しくは 腹診アーカイブ ページを参照してください。

漢方の定義

漢方とは、この一人の人間がなぜ毒を生み出すかを多層的理論フレームで読み解き、その毒を除去するとともに、毒の形成に関わる条件(L0〜L9)を検討する医学体系である。 MLMN理論における漢方の作業的定義

これはMLMN内部の作業的定義であり、漢方医学全体の唯一の定義を主張するものではありません。臨床推論を整理する視点として提案しています。

研究の現状

本理論は、検証セッションを重ね、中国・日本の古典文献の照合を通じて構築されています。『素問』『霊枢』『難経』『傷寒論』『金匱要略』、李東垣・朱丹溪を含む金元医学、吉益東洞の毒論、宇津木昆台『医学警悟』『古訓医伝』などを、原典本文と後世解釈を分けながら、現在のL0〜L9と層間病機ネットワークへ整理する作業を継続しています。相火を独立層から層間病機へ移したことは、この検討過程で生じた理論上の変更です。

論文での命題の提示や、MLMN理論を学術文脈に位置づける議論については 論文・研究 ページをご覧ください。MLMNが踏まえる東洋医学二千年の歴史と思想については 東洋医学とは何か(Part I 全10章+Part II MLMN理論/日英対訳)を別途用意しています。MLMNの内部構造に関するより詳細な記述・補助図式(層間関係、相火を病機ネットワークへ再配置した理由、毒の形成モデルなど)は、現在も検討・調整中の研究的論点を含みます。

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